なかむらあたるの表現
ずっと考えていて腑に落ちたこと。

年末くらいからずっと、お店などで耳にしていた曲が気になっていた。おおざっぱな記憶で、歌詞はこんな感じ。

手をつなぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい

(ちゃんと調べて書いていません)

最初は、まったく、いい印象が無かったのですね。
なぜか「熟年歌手」が歌う「中高年の純愛っぽい不倫ドラマの主題歌」だと思い込んでいました。そのストーリーまで想像していた。妙に印象に残る、違和感というか、そんな感じでした。

そしたら、シンガーは20歳そこそこ、しかもこの歌、15歳のときにはじめてその人が作った曲だというじゃないですか!!

ええええええ!なんで15歳が、こんな枯れたような歌を作るのか??理解に苦しみましたが、この方、いわゆる性同一性障害というやつで、ずっと自分の持って生まれた「性」に苦しんでいたのだと知りました。

15歳で、それは辛い状況だったろうなと思いました。想像もつかない世界に、しばし思いを馳せて、改めて聴くと、詩は恐ろしい深い哀しみ。声は何度となく煮詰った挙句の透明感。

中年不倫モノとか思っていて申し訳ない気持でいっぱいになった。

売り方もおもしろい。なんかエイベックス!でCMがばんばん流れてるし!

「われわれの経験や想像を超える」ことが天才だとすれば。
天才の才能については、僕にとって、長らく悩みの種だった。天才と呼ばれる人たち自身も、致命的な欠落や苦しみと闘ったり、クスリに手を出して捕まっちゃう人とかいて。

天才って厄介な言葉だと思っていた。凡人には憧れと劣等感を、天才と呼ばれる人には焦りと恐怖を与える、怖い言葉だと思っていた。

でも、中村中はちがうかもしれない。「われわれの経験や想像を超える」、ちがう経験を持った、でも、「ただ一人の表現者」だと思った。(天才じゃない!という意味ではないです。念のため。)

抑圧されたモノの、開花する先のひとつとして、芸能の世界があるのだとすれば、そこが彼女が自分を表現し、生きる場だとすれば、彼女でなければいけない理由、確固たる存在価値があるのだ。それは天才がもたらすものと役割は等しい。

普通の子でちょっとカワいい、とか、努力してアイドル歌姫、とか、なんか抵抗があった。芸能コースで鍛えられた結果の歌い手ではなく、宿命としての表現者は、ずっしりと味わい深いと思った。

また、この登場の仕方、売り方、は新しいと思った。今後の動向を気にして行きたい。べんきょうになるなあ。
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by kouichisugimoto | 2007-01-10 21:55 | 日記とか考えたこととか
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